中国 沈みゆく遺跡三峡の旅2
沈みゆく白鶴梁 (Video)
「万里の長城」建設以来の大工事と言われる三峡ダムは1993年に着工し、2009年の完成を目指して
建設が進められている。 2003年の2期工事終了とともに段階的に貯水が始まっている。長江の水位は
上昇をはじめ水面の標高は現在70m、2009年までに175mに上昇する。これに伴い632Kuの陸地
                           そして13の都市、828ヶ所の貴重な文化財も水没する。 
                           特に三峡地区は春秋時代に巴国と楚国文化が出会った  
                           重要な土地であり遺跡が数多く残されている所でもある。
                           三峡の峡谷の姿もまた確実に変化している。悠久の原峡
                           谷を味わうチャンスがあとわずかであることから今回の旅 
                           の計画は始まった。長江は四川盆地の東を出てから、高く
                           聳えている山中に入りここで、壮観な大峡谷が出来上がっ
                           ている。長江三峡は、瞿塘峡(くとうきょう)、巫峡(ふきょう)
                           西陵峡(せいりょうきょう)からなっており、これらを総称して
                           三峡と呼び長江の中で最も奇異で雄壮で美しい山水の
                           画廊となっている。三峡は、西は重慶市奉節県の瞿塘峡、
                           白帝城を起点として、東は湖北省の宜昌市まで全長は
192Kmある。その雄大壮観な風景の中、白帝城の三国志の旧跡を訪れ、しばし孔明、劉備が生きた
天下どりの時代を偲ぶことができる。
三峡・瞿塘峡(くとうきょう)    
三峡の中でもっとも「雄大な」峡谷といわれるのが瞿塘峡である。白帝城から約8Kmにわたり、水面か
らほぼ垂直に高さ約350mもの刀で切り取ったような断崖絶壁が両岸に連なり、雄大壮観な景観は感
動を与えてくれる。瞿塘峡は三峡下りの入り口である、西は奉節県の白帝城から東は山県の大寧河口
までの全長約33Km続く。河幅が急に狭くなり、いよいよ三峡と称される峡谷の始まりである。 
長江の白鶴梁は天然の石梁で、渇水の季節になると水面に露出する。唐の時代にこの梁を利用して渇
水時の長江の水位の変化を記録したといわれ、世界最古の水文調査所と呼ばれている。白鶴梁の中ほ
どに、唐代以降に刻された文字が160余段にわたって観ることが出来る。うち水文関連は108段。石に
は20数カ所に魚の目が穿たれているが、その位置が唐時代の広徳元年以来、72回にわたる渇水年の
長江の水位の記録を示していると言われている。また歴代の文人墨客もこの地に足をとどめ、数多くの
詩歌を書き残していることから、白鶴梁は「水面下の碑林」とも呼ばれる。この貴重な文化遺産も水没し
て二度と水面に露出することがなくなる。 白鶴梁の石梁の長さは1,600mと壮大で移動は難しいため、
現在、白鶴梁を水中博物館にする工事が進められている。建物の地上部分は関係資料を紹介する展示
館となり、白鶴梁は満水時でも近距離で鑑賞できるように"水中道路"を建設中である。全工事は3年以
内に完成の予定とのことである。 
 三峡・白帝城(はくていじょう)    
白帝城は白帝山上にあり瞿塘峡の河岸にある山城
である。元の名は、紫陽城といい、永い歴史のある
古城である。前漢末期、公孫述がこの地で蜀の王
として君臨していた。王は自ら白帝と名乗っていた
ことから白帝城と改名されたと言われている。三国
時代に、劉備玄徳は戦に敗れ白帝城に逃れ、永安
宮を建て隠居して暮らしていた。「三国志」の名場面
で劉備は臨終に際して自分の政権と息子二人を諸
葛孔明に託した所として有名な所である。 現在は、
階段だけが水没したのとリフトが完備されたのでか
えって観光が便利になったし風景は変わりない。今
後、水位が175mまで上昇した時には、白帝城はダ
ム湖の中の島にある城になるそうである。 
故周恩来首相の直筆による李白の詩碑
瞿塘峡の終点大寧河口
三峡・巫峡(ふきょう)    
第二の峡谷は「麗しい」渓谷とされる巫峡である。巫山県大寧河口から湖北省巴東県の官渡口まで全
長約40Kmに及ぶ。両側には巫山12峰と呼ばれる峰峰が南北両岸に並び広がっている。緩やかな流
れは山水画の世界である。小三峡の入り口を過ぎると、全長約44Kmの巫峡の始まりである。  
上海雑伎団による歓迎の自転車
で長江を渡る空中ショー
故毛沢東主席は1992年三峡ダム開発の計画
を立てた時、巫山の上に立つ138mの女神像
(岩)を観て「この景観だけは絶対に残すように」
と云ったと言われている。ここは雨、霧が多く女
神に逢えるのは大変ラッキーなことだそうであ
る。(中央の窪み左)
三峡 ・神農渓 (しんのうけい)   
神農渓は巫峡口の東2Kmの所にある西壌口で長江に合流する支流で、北側の山神農架の神農頂に
源を発する。総延長60Kmで両岸に断崖が迫る。川巾は狭く、絶壁は80〜90度、高さは300〜800m
もあり、一日平均流量は一秒当たり20立方メートルと多い。神農渓は雄大で秀麗、峻険、幽寂さが一
体となり、懸棺や60余りの鍾乳洞ある独特の景観を見せている。原住民の土家族の生活風情は今で
も見ることが出来る。水源から10数Kmあたりからが見所になっており、錦竹峡、鸚鵡峡、龍昌峡があ
る。渓流は透き通って川底が見え滝が数多くある。貯水後、水位が60mほど上がり、もともと、「豌豆
船」と呼ばれる小船だけが通れる神農渓は現在中型の観光船に乗り、十数Km奥の「羅坪」まで行ける
ようになり、神農渓下りは以前より上流のほうに移っている。「綿竹(パンダの餌)」と呼ばれる特有の植
物に覆われた山々は大自然を実感させてくれる。神農渓下りは「豌豆船」という小舟を大勢の船頭が引
いて川を上り、船に乗って川を下る、神農渓ならではのものである。舟に縛られた一本の竹で編んだロ
ープに枝ロープを結びつけロープの先は船頭の体にたすきがけに結びつけられている。土家族の男達
はこの労働に誇りと楽しみをもって働き、日々の糧(一日400円程)を得ているとの説明が有った。
「懸棺」
二千年以上前の古
代南方民族の埋葬
方法、切り立った岸
壁の上の方に安置
されている、現在も
どの様にして運ん
だのか不明であ
る。
左上の赤い看板(175m)まで水没する
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